6粒目:芸術

 

それを表現するものと、それを受け取るものとの心の交流

音楽にしろ絵画にしろ文学にしろ、どんな芸術であれ、これが本質ではないかと思う。それを表現する人は、何を表現しても良いし、その人がこれが芸術だと言えば、それが芸術になるのだと思う。それくらい芸術は懐の広いものだと思っている。一方、それを受け取る側にも大きな自由があり、どう受け取っても良いのである。受け取り方は、表現する者が強制出来るものではない。受け取り方が千差万別なのも、芸術の特徴であり、人の心の多様性であって、その一つの芸術を通して表現するものと受け取るものとの心の交流が出来上がるのだと思う。また、矛盾しているように聞こえるかもしれないが、表現する側が、受け取る側に受け取り方を強制することもまた、自由である。それすらも芸術は許容するのだと思う。ただその際は、心の交流の仕方がすこしいびつな形になるが、それもそれで一つの人と人の心の交流であり、芸術なのである。まさに芸術は、言葉ではない方法による人間関係の醸成とも言えるのかもしれない。

また、受け取る相手が自分という事も十分あり得る。音楽にしろ絵画にしろ、趣味として自己満足でやる場合がそれに相当する。例えば音楽の場合、自分で好きな音楽を演奏すると、自分でも気が付かなかった心の内が音楽という形となって具現化する。それを受け取り手としての自分自身で改めて自分を見つめることが出来るので、一つの素晴らしい芸術の在り方なのだと思う。そういう意味では趣味としての芸術というのは、自分自身を知る良いツールになり得るのだと思う。

 

近年、AIが芸術分野においても台頭してきて、芸術家の仕事も危ぶまれるという話しが頻繁に出てきた。そこでちょっと考えてみたいと思う。私の定義で考えると、AIの芸術における役割とは・・・。

恐らく、上手く使えばAIも芸術を行う上でのツールとして使うことが出来るのかもしれない。例えば,「何か感動する絵を描いてくれ」とAIに頼んで出来た絵は、依頼した人の芸術と言えるだろうか。ちょっと、これは無理がある気がする。それは、その人が表現しようという何かがそこに見当たらないからだ。では、例えば、「僕は昔行った湖の景色が大好きで、どうしても忘れられないんだ。その湖はエメラルドグリーンで、木々に囲まれていて、昼の日差しで木漏れ日が湖に当たってとても美しい色合いをしているんだ。そして、湖の近くにはシカが数頭いて、まるで妖精が出てくるような景色なんだ。ぜひそんな絵を描いてくれ。」と、ある人がAIに頼んだとしたら、どうだろう。実際に描かれた絵はAIに依るものであるが、その人の気持ちを反映させているものであることにも違いはない。しかも、自分のイメージに合うまでAIに何度も修正を依頼したりするだろう。ここにはほんの少し、芸術性があると言っても良いのかもしれない。その人が表現したい何かがその絵に潜んでいる気がする。その人は絵を描く才能が無かったのだけれど、AIの力を借りてイメージを具現化することが出来た。もしかしたらそれは一つの芸術と言っても良いのかもしれない。

つまり、人が想いや意思を持ってAIを使うかどうか、ということなのだろう。芸術が、表現するものと受け取るものの心の交流であるとするならば、表現するものの心が込められているものであれば、AIを使ったとしても芸術と言えるのかもしれない。ただ、それを続けていくと、本当に表現したい想いが強い人であれば、やっぱり自分自身の手で描きたいとそのうち思うようになる気もする。それがきっかけで絵の練習をするのであれば、やはりAIが良いツールとしての役割を果たしたと言えるだろう。

 

 

しかし、一点物の芸術の創作ではなく、商業的な職人的創作においては、AIを使うことで人の仕事が減る可能性はあるのかもしれない。しかしそれも、AIをどう使うか、どう表現するかという点では人の心の見せどころではあると思うので、そこに力量の差が出てくるのだと思う。要するに、アイディア出しをするのが人間で、実際に実行するアシスタントがAIという形の仕事に代わっていくのであろう。

しかし、アイディア出しまでできるAIが出てきたら、どうだろう・・・。そうしたら、人は恐らくAIに対して個性を感じ、好意や好みを感じるようになるだろう。このAIの絵が好き。このAIの音楽が好き。こっちは嫌い。という風に・・・。そうすると、表現するものがAIになり、受け手が人間というだけで、やはりそれも立派な芸術になり得るのかもしれない。しかし、さらにそれが続くと、AIが出す完成された芸術に人はだんだんと飽きてくるとも思う。芸術は、上手い下手だけでは語れない。表現するものの心を表すものであるので、下手であっても感動する芸術はいくらでもある。そうすると、やはり生身の人間が表現する芸術に新鮮さを改めて感じるようになり、旧来の芸術がまた戻ってくるのではないだろうか。AIが下手な芸術を作ったとしても、それはAIの心を表すことにはなっていないと思う。AIは大量の学習データを学んだ上で行動を起こすので、一生懸命やっているのに下手なもの、というのは作れないと思う。すなわち、AIはどうあがいても、「器用」なのである。そこには、ある意味で芸術の深みが欠けているのだとも思う。完璧すぎる人間が味気ないのと同じように、頑張ってもうまくいかない、それでも一生懸命に生きている。それがその人の心の深みを作り出し、それが芸術に昇華されるのであるから、やはり生身の人間が作り出す芸術が一番魅力的なのだろう。と、AIによる芸術が一旦台頭してそれが続くと段々それに気づくようになるのかな、と思っている。AIが世の中に浸透すればするほど、人とAIの絆が増え、人と人との交流が段々と疎遠になっていくような気がするのだが、ひょっとしたら芸術がそれを元に戻す重要なツールになるのかもしれないな、と、最近感じている。(ただ、学習するデータも自分で選べるAIが出てきて、それで偏りのあるAIなんかが出てきて、それが個性を作り出すようになったら、それはそれで、もはや新しい種族の生命が誕生したような感じになって、ちょっと怖いような嬉しいような、複雑な気持ちになりそう・・・)

 

なんか話しが段々AIの方に向いてしまったので、そろそろ終わりにしようと思うが、芸術はやはり、人と人の心の交流にこそ意味があるのかもしれない。AIとの交流も悪くはないが、やはりお互い欠点だらけの人間が作り出す理想の表現が、一番居心地がいいのであろう・・・。

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「6粒目:芸術」への2件のフィードバック

  1. AIの議論ははついつい盛り上がってしまいがちですよね。
    仮にわたしたちの生命の形態が、地球上においての最適解であるとすれば、AIも同じ発展(進化?)を遂げるのではないかという気がしています。
    生命がとっている、あえて高度化しない(単細胞生物など)、行動パターンを単純化して無駄なリソースを使わない(昆虫とか?)、逆に徹底して高度化する(ヒト?)など様々な戦略。
    また、それらに至るための多くの分岐点を生み出したエラーの数々、遺伝子の転写エラー、行動のエラー。
    もし、そうなったら…、などど妄想が捗ります。

    1. Strad様、
      いつもありがとうございます!
      はい、AIの話しはいつも考えすぎて色々な方向に飛んでいってしまいます(笑)
      仰る通り、AIが我々地球上の生命と同じ形態で発展したら、すごいですね・・・。あえて高度化しないという超高度なことをやり始めたら、確かにすごいですねぇ。AIが自己の存続の為にそういう選択を取るようになったら、それはまさに生命と同じですね…。我々地球上の生命も、基本は種の存続が根底にありますもんね。
      そうすると次に考えたくなるのは、命そのものということになってくるのでしょうかね。我々人間の命とは何だろう?AIの命とは何だろう?そもそも生命と命は同義語?
      色々な妄想が広がって楽しいですね。AIはそういう意味でも、人間に色々な命題を投げかけているのでしょうね。なにごとも、前向きに捉えれば全て自身の成長のきっかけになるのでしょうね。(これも生命の発展ですかね(笑))

      また色々と宜しくお願いいたします。

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