福島の原発の処理水の海洋放出について、今様々な意見が飛び交っている。いや、それ以前にも、様々な場面で風評被害の問題は沢山あった。何が原因なのかと言うと、科学というものが持つ特有の性質が根本にあるのではないかと思っている。(なお、風評被害を悪用して国政に使ってる、などの例は今回の話しの対象外とします)
今回の海洋放出も、科学的に調査がなされて、根拠に基づいて安全が保証された。にもかかわらず、やはり心配になる人は多くいるようだ。
科学の定義は色々あるが、科学哲学者のカール・ポパーという方が提唱している定義が大変分かりやすい。それは、科学というのは反証可能性がある、という事である。どういうことかというと、簡単に言うと、科学は失敗を受けいれる、ということである。とても共感できる考えである。科学は昔から、その時代の最先端の考えであり、どんどん新しいものを築きあげてきた。しかし、時代が代わり科学自体が進化すると、以前の科学に間違いがあることに気付き、そして人々はそれをきちんと受け止め、失敗を糧にさらなる進化を遂げてきた。宗教と対照的な点である。宗教の場合は神の言葉が元になっているため、その時点で完成しているものである。だから進化することはなく、常に明確なゴールがある(神の言葉の書物等について、解釈が進化する、ということはあると思うが…)。
恐らく、科学のこの点が風評被害に繋がっている面もあるのであろう。今までも、水銀やアスベストなど、人間の健康に関することで、当時の科学では気づかなかった現象が後々に分かり、実際に被害が出てしまっているという例もある。しかもその被害に対して国が保証する範囲において様々なもめごとまで起きている。そういう事実が、現在の科学で大丈夫と言われても不安になってしまう一因はあるのだと思う。
では、結局科学は信用してはならないのか?というと、それも違うと思う。間違えている可能性はひょっとしたらあるものの、やはり現時点で考えられる最善の策を示していることには違いはない。大事なことは、我々も”覚悟を持つ”ことだと私は思っている。以前、私のHP内(考える種~5粒目 信じる~ )にも書いたが、信じることが出来るか、という事が重要なのである。科学は万能ではないということもきちんと受けとめ、それでも今考え得る最善の策であるという事をしっかりと理解し、万が一それが間違いだった場合でも、それを受け止めようという心を持つことが、大事なのではないかな。人生の中で大きな判断が必要な状況は多々あるが、何かを強く”信じて”前に進むことが出来れば、不安は少しずつ減っていくものだと思う。その後に待ち受けるどんなことも受け入れる覚悟を持って前に進んでいけば、道に迷わなくなるのではないだろうか。そのためにも、今回の件も、科学的な根拠の説明はもっと具体的に、分かりやすく、客観的な視点から(これがとても大事。偏った情報にならないように…)、かつ何度も国民に提示してくれると良いと思う。
とは言え、万が一問題が発生した場合の国の保証など、もう少し丁寧に説明が欲しいし、もっと充実した保証も必要ではないかな、とも、思うのだが・・・。それと同時に、国民であり消費者である我々も、ただ待ちの姿勢になるのではなく、自ら情報を探しに行って、自らの力で判断材料を得るという姿勢も、大事なのであろう。国全体が向上していく時というのは、それが出来ている時なのだろうね。
まぁとにかく、受け手である国民自身も、覚悟を持って信じる、という前向きな姿勢も必要なのじゃないかな、というのが要点である。勿論、何を信じるかは人それぞれ自由である(科学を信じないという自分を信じる、という事も勿論、あり得るかと思う)。何を信じてもいいと思うので、まずは心から信じられるものを手に入れましょうか。