考える種1粒目の「幸せ」について、ちょっと追加したい事があるので、とりあえずブログに書いてしまいます…。
過去の記憶の想起からやって来る幸せは、個人的にはかなり大きなものとして感じられます。僕の場合、例えば、昔はまっていたゲーム(FFとか聖剣伝説とか。特に初代ゲームボーイ版の聖剣伝説外伝が大好きでした)の中の綺麗な音楽を久しぶりに聴くと、その時やっていた光景が思い出されて、その時の幸せな記憶(というよりその瞬間の人生そのもの)が、噴水のように一気に噴き出してくる感じがするのです。これを感じた瞬間は、本当に幸せだなぁと、心から思うのです。
幸せは考えるものではなく感じるものだと思います。それはその通り。だからあまり細かく考えすぎてもよくないのは分かります。でも敢えてここでちょっと深堀すると何が見えてくるのか、考察してみたいと思います。
今の例で言うと、昔ゲームをしていた頃の記憶が幸せと結びついているのだけど、これは恐らく、「過去の記憶は美化される」現象と通じるものがある気がしています。恐らく、ゲームをしていた当時も、その前後の時間とかには嫌なイベントや面倒な出来事(学校の宿題であったり、友達とのいざこざであったり、色々な上手くいかない事などなど…)があったと思うのです。でも、記憶の中ではピンポイントにそのゲームをやっていた瞬間の楽しさや当時の楽しかった想い出だけが想起されているのだと思います。(だから本当は、当時感じていた気持ちも、今記憶として感じているものほど幸せではなかったんだと思うんですよね…)良い想い出ばかりが、残るんですよね…。それでその当時の生活が全て楽しさで満たされていたという想い出に変わるのだと思います。あの頃は楽しかったなぁ、と。そういう想い出が、当時の心の琴線に触れた音楽やら様々な感覚にひっそりと宿り、時を経て「今」それらに触れると、ふと幸せな記憶として思い起こされるのでしょうね。
…では、「今」という状況はというと…。
「今」という時間の前後に張り付いている、過去の後悔や未来の心配や不安の板挟み状態にあって、その中で「今」という時間を味わっているから、過去の「想い出」ほど幸せにはなれないのではないだろうかと…。だとすると、逆に言えば、記憶だけじゃなく「今」においてもその前後の事を考えないで純粋に「今」だけを楽しむ事が出来るのなら、過去の記憶の想起と同じレベルの幸せを「今」感じる事が出来るのではないかと思うのです。要するに僕たちは、すでに起こってしまって取り返しのつかない過去や、まだ来ない未来の不安ばかりに心を奪われ過ぎて、「今」に心を合わせる事が出来なくなっているのだろうと、ふと思いました。もっと「今」に集中して、その場の楽しさを全力で味わえたら、一瞬一瞬もっと幸せになれるのではないかと考えられるようになりました。「念じる」って、まさにそういう漢字ですよね。今の心と書いて念じる。今に集中するということが念じるという事なんでしょうね。信念がある人というのは、今の心を信じることが出来る人という事で、そういう人は今を幸せに生きているんだろうなぁと思います。
ちなみに、これを考えていた時に、「今」って、そういえばどれくらいの一瞬の時間の事なのだろうという疑問が出てきました(これが僕の新研究日記のNo.1に繋がっていきます…)。
とにかく、過去や未来の不安を極力減らして「今」を楽しもうと、その時から日々心掛けるようになりました。(色んなところでよく言われている文言ではありますが、やっぱり自分の実感として思い至った事については、意識が格段に変わりますね)これは「幸せ」について感じるだけじゃなく深く考えたからこそ出てきた発想なわけで、多少は役に立つ行為であったと思います。恐らく、深くよく考えた上で、最終的には感じるままに任せるのが一番自然で良い結果に繋がるのだと思います。そういうわけで、やっぱり考える事も大事だよね、というお話しでした。