記念すべき1粒目は、やっぱりこれにします。本サイトにおける研究を行うための土台にもなっている「幸せ」についてです。個人的な考えですが、研究という行為は人類がより幸せに暮らす為に行う営みだと思っているので、まず最初にこの言葉について考えてみたいと思います。(そして、支離滅裂に書きまくっていたら一貫性のない長文になってしまいました…。)
まず端的に僕自身の幸せの定義はというと・・・、
「誰かに(何かに)心の底から感謝している瞬間」
となります。勿論幸せは人それぞれですので、これが絶対なものとは思っておりませんし、押し付ける気もありません。ただ、僕にとってはこの考え方が一番しっくりくるというだけです。
幸せに感じる瞬間は色々あると思います。ずっと欲しかったものを手に入れた時、給料が上がった時、昇進した時、恋人が出来た時、周りに自分の能力を認めて貰えた時…。そんな時、心の底から嬉しいと感じます。ただ、「何かを手に入れる」類いの幸せは、必ずそれを失う不安も同時につきまとってしまいます。そうすると、なにか心の底から手放しには喜べない気持ちになってしまうんですよね…。
一方で、自分が本当に困った時、友達や誰かに助けて貰って、心底助かった~という経験をした事はありませんでしょうか?僕はよくあるのですが、本当に困っている時に誰かに助けて貰うと、心の底から「有難い!」という気持ちになるんです。この時、心の底から「感謝」が溢れ出てきて、不安がつけ入る隙もなく、むしろ恩返しがしたいという気持ちで一杯になります。「絶対この人には何かで返さないと!」って。何かを失うどころか、無償で何かを与えたいという気持ちになる…。この瞬間は本当に幸せだなぁと、感じるのです。全てが満たされているという感じで。
他にも幸せを感じる瞬間は沢山あります。五感に関してもそうですよね。美味しい物を食べて感動する時も幸せですし、美しい絵画を見て感動する時や綺麗な音楽を聴いて涙を流す時も、幸せを感じます。これらも、よくよく考えると根底にはやっぱり感謝があるのではないかなと最近感じています。美味しい物を食べて幸せを感じるのは、身体も心も満たされて、意識はせずとも身体が有難いと感じているんだと思うのです。また、人間は本能的に常に「美しいもの」を求める生き物だと思います。そう考えると、美しい絵画や綺麗な音楽に出会った時も、その美しさに感動し、美しいものを求める欲求を満たしてくれた事に、これも意識はせずとも身体が感謝しているんだと思うのです。そう考えると、殆ど全ての幸せの根底には「感謝」が存在している気がするのです。
ここで大事なのは、それを「認識する」ことだと思います。幸せの根底が感謝であると知っていると、より敏感に幸せを感じる事が出来るようになる気がするんです。生きていく上で色々な場面で有難いと感じるようになると、必然的に日々幸せになり、さらに恩返しの気持ちも強まり、さらに周りの人を幸せにするという好循環も生まれます。皆がそんな感じで生きたら、世界はもっともっと良くなると思うんですけどね。研究開発や政治やその他もろもろも、もっと違う方向も目指せると思います。
ちなみに、五感における幸せについてはもうちょっと話しがありまして…。
五感における幸せって、過去の記憶が強く結びついていますよね。好きな音楽や好きな食べ物や好きな色など、自分の好みは過去の経験に基づく事が多いと思います。とすると、如何に子供の頃に幸せな体験を一杯獲得するかが、大人になってどれくらい幸せに生きられるかという事に繋がるのだと思います。
僕は、夜の都会の街並み(綺麗な夜景のある場所だけでなく、雑多な繁華街や裏道小道なども…)を歩いたり夜のレストランに入るのが何となく好きなんです。今まで特に意識はせずにそう感じていたのですが、自分の子供が出来てちょっとずつ思い出してきた事があります。小さい頃両親がクラシック音楽が好きで、よく東京のコンサートとかに連れて行って貰いました。それでコンサートの帰りとかにレストランに連れて行って貰った記憶があり、それが心に「幸せな記憶」として残っていたんだなと、少しずつ思い出すようになりました。今でも鮮明に覚えている一瞬の景色が結構残っているんです。他にも、子供の頃ドラえもんが大好きで、毎年横浜の相鉄ムービルでやってるドラえもんの映画に連れて行って貰い、帰りに高島屋のおもちゃ屋さんに行ったりお惣菜屋さんを巡ったり、上の階のレストラン(昔のローズダイニング)に行って美味しいご飯を食べたりして…。それも今思えば僕が映画館やデパートが好きな要因の一つになっているんだなと感じるようになりました。そんな記憶を思い出しながら、育児で一番大切なのは、子供の心に「幸せの種」をいっぱい植えて育ててあげる事なんだと思うようになりました。心の中に幸せの花が沢山咲いた人は、日々の何気ない場面で幸せを感じる事が出来ます。少なくとも僕自身は心にそんな花が沢山ある気がしているので、両親に感謝しつつ、僕自身も自分の子供に沢山幸せの種を植えてあげたいなと想い、日々子供に接するようになりました。
さて、ここにきてさらに話しが飛んでしまうのですが、最初に、何かを手に入れる幸せは必ずそれを失う不安がつきまとってしまうと書きましたが、ある時、ちょっと応用するとこの不安が無くなる事に気が付いたんです。幸せを感謝する事と捉えて、例えば何か欲しい物が手に入ったとき、その「物」自体に喜びを感じるだけではなく、手に入った環境(あるいはくれた人)に感謝するのを忘れないようにするんです(当たり前の事かもしれませんが…)。そうすると、物自体への喜びも感じながら、決して失わない幸せも同時に感じる事が出来る。たったそれだけで不安のない幸せを感じる事が出来るようになりました。さらに言うと、物に対する喜びも、物を「所有する喜び」というよりは、その物と過ごす「想い出」の方に価値を置きます。そうすると、例えその物が古くなって壊れてしまったり、無くなってしまったとしても、その想い出自体は決して消える事なく自分の心に留まり続け、自分の感性となって心に刻まれ、「物自体」は無くなっても、これからも人生を共に過ごす事が出来るのだと思うのです。こう考えると、ただ物を持っているだけではなく、積極的にその物を使って想い出をいっぱい作っていこうという気持ちになれるので、より深くその物との絆を作る事が出来るのです。上で幸せの種と書きましたが、物自体も幸せの種になり得るんです。そう考えると何となく心が温かくなって安心出来ます。今まで何となく、物はいつか必ず無くなってしまうから、物との付き合いは難しいなぁと感じていたのですが、こうやって考えると、物を大切にしながら物に対する喜びも感じつつ、それ以上に自分の心に与えてくれる「経験」に幸せを感じることが出来るので、必要以上な物への執着や物が無くなる事への不安が消えて、安心して生きていける気がしているのです。
これが最近の僕の幸せに生きるコツの一つです。
さて、まとまりもなく行ったり来たりしてしまいましたが、まとめると、「幸せ」はやっぱり「有難い」ものだと思うんですよね。誰かに感謝して恩返しして、その人がさらに感謝して…。要するに、人は周りの様々なものに(それこそ生き物だけでなく物にも)お互い支えられて「生かされている」ということを忘れないことが大事、ということなんだろうね。
そして、その感謝を通して良い循環を生み出して良い世界を作っていきたいですね!
というわけで、思うままに書いていたらとりとめもなく長くなってしまいましたが、以上が僕の考える「幸せ」です。もしも宜しければ皆様の幸せに関するお話しもコメントしてくれると、とても嬉しいです!
「幸せ」。
それを求める強い気持ちがあったり、何か起きた時には、失ったという確信を得ている割には、定義があまりにも曖昧な概念ですね。
考えてみると、私は「幸せ」をリアルタイムで感じる事はあまり無くて、記憶をたどった時に強く感じる気がします。
記憶といっても、数分前のものから何十年前のものまで幅広いものです。
これは、一旦、状況を認知して、何かのプロセスを経て、ぼんやりした表現だと咀嚼して、それから「あ、幸せ。」と感じるのではないかと仮説を立ててみたり。
私の記憶を俯瞰した時、強い「幸せの記憶」は、幼少期、思春期に至るまでのエリア、特に小学校低学年頃に集中している気がします。仰るように、その辺りに「種」が沢山植えられていたのかもしれません。
50代も半ばに差し掛かりましたが、これからも、まだまだ新しい種を植えたいものです。
ここで出会えるかもしれない種にも期待しています。
Stradさま、
コメントありがとうございます!!大変嬉しいです!本ホームページのコメント第1号です(笑)
そして、「幸せ」に関するご意見もありがとうございます。確かに、幸せって、仰るように、リアルタイムより、少し遅れてやってくる気がしますね。あまり今まで気にしておりませんでしたが、「状況を認知」→「何かのプロセス」→「幸せの実感」という流れが皆にあるとすると、「何かのプロセス」というのが、個々人が今まで生きてきた経験に基づく幸せを感じるフィルタのような役割をするのかもしれませんね。タイムラグがあるというのもとても興味深いです…。
やっぱり色々な意見が聴けるのはとても嬉しいです。視野を広げていくことが出来て有難いです。
また今後とも、どうぞ宜しくお願い致します。