3粒目:人生とは…

 

またちょっと重たいテーマですが、人生について考えてみたいと思います。(重たいテーマはそろそろ一旦おしまいにして、次くらいからは少し軽めに行きます)

 

さっそくですが、僕にとって、

 

人生は味わうものである

 

と考えています。「楽しむ」ものではなく「味わう」もの。料理と同じ。甘いものもあれば辛いものや酸っぱいものや苦いものもあって、そのどれもが味として吟味出来る。噛めば噛むほど味が出る…。人生もそれと同じで、喜怒哀楽を「味わう」ことが大事なのだと思うのです。そういう意味で、人生とは様々なことを「経験する」ものだと思うのです。そういう事も含めて「人生を楽しむ」という言い方をする場合もあるかと思うのですが、喜怒哀楽に楽は入っているし、味わうという表現の方が自分としてはしっくりきます。人生を楽しむぞと意気込んでしまうと、悲しいことや辛いことはやっぱり嫌なもののままになってしまうのですが、悲しいことや辛いことも「味わう」と言うと、ちょっと嫌じゃなくなるんですよね…(僕だけかな…?)。

 

悲しい出来事は長く感じるのに、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうという体験は多くの人が経験しているものではないでしょうか?僕は感情はエネルギーだと思っています。嬉しいも悲しいも、目一杯味わうと結構疲れるしお腹が空きます。やっぱりエネルギーを消耗しているのだと思うのです。ただ、そのエネルギーがどんな物理量でどこで消費するものかは自分には分かりません(研究者としてはそれが分からずに感情をエネルギーだと断定するのはちょっと抵抗があるのですが…)。ただ実感として、感情はエネルギーだと思うのです。そしてそう考えると、楽しい時間があっという間に過ぎてしまうのは、全力で楽しさを消費しているからだと思うのです。全力でエネルギーを使うから一瞬で消費してしまうのです。一方、悲しい時は、無意識のうちになるべく悲しまないようにどこかで抵抗してしまっている事が多いのだと思います。そうすると中々エネルギーを消費せずに、心に悲しみをため込んでしまうのだと思うのです。大学の頃かな?そう思うようになってから、全ての感情を全力で味わうようにしてみました。そして、悲しい出来事も全力で味わってみると、不思議なことに、いつの間にか悲しさが消え去っている事に気付くようになりました。悲しいのはやっぱり嫌だけど、全力で味わってみると、人生においては必要なスパイスの一つなんだなと、(後から)少しずつ思えるようになってきました。また、それと似たような話しで、痛みを伴う時間も長く感じると思います。特に歯医者さんで虫歯の治療をしているとき、かなり痛いですよね。特に神経を抜いたりする時・・・。ここでも、頑張って全力で痛みを味わうようにしてみた(現在まさに削られている歯の部分に全意識を集めて、どの程度の痛みの量なのかを明確に意識してみるのです。最初、かなり痛いです…)のですが、これも不思議と、全力で味わってみると、痛みにも上限があるのか、「ああ、今の痛みはこんな感じなのか…」と、俯瞰して感じている自分がいる事に気付き、不思議と我慢できるようになってしまいました。やっぱり、感情はエネルギーなんですね。全力で使ってしまうとあっという間に流れていくのだと思います。ほんと、何処か痛い時って、無意識にその痛い場所から意識を外そうとしてしまうんですよね。それを敢えて思いっきりその痛い場所に意識を集中するんです。ホントに、びっくりするくらい、「ああ、こういう痛みなんだ」と、外から自分を眺めるような感じになります。(別に痛いのが好きという趣味はないですよ)…そして、楽しい時間も勿体ぶらずに全力で味わって一瞬で流すようになりました。すると、あっという間に去っていく喜びに固執する事も無くなりました。そうやって感情を全て全力で味わっていると、感情のサイクルがちょっとずつ見えてくるようになります。どの感情も人生に必要なスパイスなんだなぁと思えるようになってきました。誰にでもある、人生における浮き沈みのサイクルにも抵抗する事なく、波乗りのように自然と味わい、楽しい事も悲しい事もどちらも平等に味わって、人生の想い出として積み重ねていけるように、少しずつですが、なってきたような気がします。まぁ勿論、長い人生において、それでも自分の中で処理しきれない感情もこれからやってくるかもしれません(特に自分は運が良い方なので、今はまだ甘い生き方をしているだけなのかもしれません…)。それでも、頑張ってそういう悲しみや不幸と感じる大きな出来事からも目を逸らさずに全力で味わっていきたいと、思うのです。とにかく、辛い事や悲しい事は、味わうことを抵抗しているうちは中々エネルギーが消えないものだと思います。全力で味わって消費すると、別のエネルギーを溜めるスペースが出来て、次のサイクルに進む事が出来るのだと思います。それが、新しい一歩を踏み出すという事なのでしょう。

そういうわけで、やっぱり人生は「楽しむ」だけではなく、「味わう」ものなのだと、思うのです。生きていく上で周りの様々な刺激によって自分に流れ込んでくる感情というエネルギーをしっかりと味わうこと、それこそが人生なんだろうなと。当たり前のようなことを言っているかもしれませんが、改めて「味わう」ことの大切さを実感して全力で味わってみると、いかに今まで自分が自分の感情に対して真面目に向き合っていなかったかが分かるのです。

 

 

 

そして、人生と言えば、必ずだれもが最後に「死」を経験します。どんな人であっても死を避ける事は出来ないと思います。生きている間に一番忘れてはならないことは、人は死ぬ時、何も持って逝く事は出来ないということだと思います。…しかし、何かを遺して死ぬことは出来る。何かを遺せば次に繋がる。それは、自分の為ではなく「他の誰かの為に生きる」という事でもあります。そしてそれが出来るかどうかは、生きている間に自分の命以上に大切な物を見つけられるかどうかに掛かっているのだと思います。それが子供であっても良いし、愛すべき伴侶であっても良いし、教え子であっても良いし、もしかしたら人ではなく大切な動物の相棒かもしれません。さらには地球全体の事を考えるような大きな優しさを持っているのもとても良いです。何にしても、自分の人生全てを掛けて守りたいものが出来た時にはじめて、「何かを遺す為に生きる」という段階に達するのだと思います。自分の為だけに生きる人生だと、最後の死の瞬間に何かを遺す意義がないので、全てがそこで終わってしまいとても寂しい最後になると思います。次に繋げる愛すべき存在があるだけで、人生が輝くのだと思うのです。

そしてこの状態に達する為に大事なことが、様々な経験を通して人生を味わうことだと思うのです。なぜか?そうすることで自分という人間の輪郭が出来上がるからです。自分自身がどういう人間であるかを明確に知り、自己を確立した状態でなければ本当の意味で他人を愛することは出来ないと思うのです。もし、自分がしっかりしていない状態で愛すべき存在が見つかったと思うなら、もしかしたらその愛の一部は「依存している」という状態になっているかもしれません。あるいは人によってはそれを「恋」と呼ぶこともあるかもしれません。クサい話しかもしれませんが、よく言われているように、愛は与えるもの、恋は求めるもの、というのがまさにそういうことだと思うのです。自分自身がしっかりしているから、何かを求める必要がなく、与えたいという気持ちが生まれるのです。それが、何かを遺して死ぬという事に繋がっていくのだと思うのです。自分の外に幸せを見いだせて初めて、幸せに死ぬことが出来るのだろうなと。そして外という存在を知る為には、まず自分という輪郭、すなわち外と内の境界を作る必要があるのです。その為に色々な事を味わって経験することが大事なんですね。

 

何も持って死ぬことは出来ないと書きましたが…、実は唯一持っていけるものが「感情」なのではないか、とも思うのです。(勿論、死の瞬間に感情が消える可能性がありますが、少なくとも直前までは持っていられます)上で述べたように、自分の愛すべき存在の為に何かを遺せたら、幸せを託すことが出来たなら、自分も幸せの状態を保って死ねると思うのです。人類が行っている超長距離リレーにおいてタスキを渡す行為、それが人生なのかな…。だとしたら、そのタスキが「幸せのタスキ」だったらステキですよね。幸せを次の世代に託す。それが延々と続いて人類が発展し、平和な世界が続いていくのだと、思うのです。誰に(何に)託しても良いのです。何でもいいから、自分を確立した上で託したいと思える誰か(何か)に出会えたら、幸せな人生を送れると思います。そしてもう一つ。僕たち自身も一人残らず誰かからそのタスキを渡されたという事も忘れないことが大事なんでしょうね。託された何かを携え、さらにそれに何かを足して、次の走者にタスキを渡していけると良いですね。

 

 

結局人生とは、様々な経験を味わうことでまずは自分という輪郭を築き上げ、その上で心から愛すべき自分の外部の存在を見つけ、その後は最後までその存在に遺す「何か」を築いていくプロセスなのだろうと、思います。

 

 

 

このテーマは様々な解釈があると思うので、また今後新しい考えが生まれたら、再度、書いてみようと思います。また、他にも色々な視点から考える事が出来ると思います。良い考えがありましたらぜひコメントもお願いします(^^)

 

 

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